人間関係

他人からの評価を気にしすぎる人がダメになっていく理由

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仕事での上司や部下からの評価、趣味での友人や仲間からの評価。

評価はありとあらゆる面で行われますが、昨今は「評価を気にしすぎる人」が爆発的に増えたと言えます。

特にSNSでの発信、趣味で言えばイラストを投稿する絵描きの人にも多いようです。

そんな「他人からの評価」ですが、気にしすぎる人がダメになっていく持論を述べたいと思います。

他人からの評価を気にしすぎて人生後悔する前に

他人の評価を気にしすぎると自分が消えていく

それは「その人らしさを失った極めて当たり障りのない人物像や表現になる」ということです。

悪くないけど良くもない。

飲食店に行って「まぁ〜マズくはなかったけど、別に美味しい訳でもなかったね」って感想ありますよね?アレ。

 

他人の評価を気にしすぎる人は「好かれるのはいいけど、嫌われたくない」と思う人が多いでしょう。

しかしそれは無理な話です。

 

例えば、世の中バカな事をする人は一定数いますが、彼らは「バカな事して、あたま悪そ〜あーやだやだ」という悪い評価を受けながらも「コイツおもしれーじゃん!イケてる!」という良い評価も受けています。

逆に、世のため人のためと募金・寄付活動に励んでも「偽善者!他人に善人アピールしたいだけだろ!」とケチをつけてくる人もいます。

 

他の記事でも「好きと嫌いは表裏一体」と書きましたが、誰かから興味を持たれるということは「嫌悪」か「好意」に自動で振り分けされるということ。これらの反対にあるのは無関心です。

「嫌悪」か「好意」かは相手の価値観やタイミングによって決まるので、自分がどうこうできる話ではありません。

 

つまり、相手の価値観に合わせて好意のみを受け取ろうと思うなら、数が増えるほど矛盾が生じて自分自身が破滅します。

 

  • X君「Aは好き、BとCは嫌い」
  • Y君「Bは好き、AとCは嫌い」
  • Z君「Cは好き、AとBは嫌い」

A・B・Cのどれか1つを選んでこいつら全員に好かれる方法があるなら、むしろ私に教えてください。

 

こうなると「全部は無理、どれかを選び、どれかを切り捨てるしかない」となりますよね。

仮にAを選ぶなら、Y君とZ君から批判されることを受け入れなければなりません。

 

ここで大事なのは「自分自身はどれが好きなのか?」という話。

他人の評価を気にして「本当はCが好きだけど、周りはみんなAだからAにしておこう」とか思う人が意外に存在します。

自分を抑えて嫌々Aにしているにも関わらず、本来価値観の共有できる仲間であるはずのZ君から批判されるという笑えてくる展開を本気で悩みながら決断する人もいます。

あるいは、Aが好きそうな相手にすり寄るように嫌々Aにしたのに「実は相手の方も周囲の評価を気にしてAを好きそうに振る舞っていた」となるともう不幸どころではありません。何のコントだよって。

 

それらを割り切って「仕事ではAだけど、趣味ではCにしてるよ!」と考えられる人なら問題ありませんが、仕事も趣味も全部自分自身に不本意な選択をしている人は可哀想ですが後悔が待っています。

 

だって自分自身が消えているのですから。何を信じたらいいのでしょうか。

 

評価を気にし過ぎる人ほど自分自身をねじ曲げ道を踏み外すリスクが高い

自分を曲げてでも承認や評価を渇望する人も中にはいるでしょう。

それくらい他者から得る承認・良い評価の味はクセになるのです。

 

でも、舌は肥えるとどこまでも美味を求めてハードルが上がっていきます。

つまり、自分を曲げて得た評価もゆくゆくは物足りなくなり、自分自身の曲げ方も復元不可能な状態までねじれていきます。

 

次第にいつも評価してくれる人からの評価は当たり前で嬉しいと思えず「新規の評価が欲しい!」と思うようになったり。

こういう人は次第に言動が変わっていき、評価がない人を下に見たり、評価の有無で優劣を付けていきます。

相手が自分より評価が多いとペコペコし、自分より評価が低いと横柄になります。

 

しかし、自分を曲げて得た評価について確かに言えることは「それは自分ではない」ということです。

つまり「その評価は自分についたものではない」ということを本質的にどれだけ理解できるか。しているか。

まぁ理解できないから調子に乗る訳ですが。

 

評価を気にしすぎる人ほど、いざ評価された時に道を踏み外すリスクが高いです。

例えば

たまたま流行に乗って当たった事業を「自分の力だ!俺はすごい商才を持っている」と奢ったり。

流行りのコンテンツの二次創作イラストで良い評価が増え「これは全部私の絵のファンだ」と勘違いしたり。(流行りのコンテンツのファンが見てるだけです)

 

他人からの評価より自分軸を確かにしている人ほど「当たったのは流行+運のおかげだな〜」と冷静に評価できます。

内面は常に謙虚を保ち「自分はまだまだ」と思えるかで将来的な伸びしろが変わります。

 

つまり他人の評価よりも「自分がどう思うか」に意識を向ければ向けるほど「他者の評価より、自分の成長を自身で感じられるかが重要」という思考になってきます。

それが極まった結果、他者から多大な評価を受ける可能性はありますが、それはすでに副産物であり踊らされることがありません。

 

他人からの評価を気にしない自分になる方法

「自分がどう思うか」を具体的に考えていくこと

大切なのは何事も「好き嫌い」の理由をはっきりさせることです。

  • いつも○○な作品ばかり観てしまう。私はどこに惹かれているのか?
  • こういうストーリーは苦手。なぜ苦手に思うのか?

「有名人が推してたから」とか「評価が良かったから」ではなく、もっと自身の根本に眠っている感覚を言語化しようとすれば、それが自分軸として強固なものになっていきます。

 

そこで積み上げられた自分軸において今度は「いまの自分の行動はどうなのか?」を評価していくと、他者の評価が介在しなくなります。

 

自分への評価も「今の自分はダメだなぁ」とか一言で終わったら思考が浅すぎで「何がどうダメなのか?どうしたら良いのか?」まで考えていくことが出来ない限り、一生自己成長は望めません。

というのも「今の自分はダメだなぁ」という一言はなんとなくの印象で感じていることなので、具体的な行動を掻き立てないのです。

 

「そういう事を考えることができない」のであれば、そもそも「好き嫌い」だって他者の受け売りだったり、他人に流されて生きてきたということです。

自分軸で考えられる人というのは「99人がNOと言っても、自分だけはYESを貫ける人」です。

そこには自分なりの根拠が必要であり根拠に至る思考があるはずなので、それができないと言うなら誰かに依存するしかありません。

つまり「いままで思考を誰かに依存した人生を過ごしてきたのではないか?」という話になります。

 

逆に言うと、誰かの思考に依存して生きてきたからこそ、いざ自分主体で動こうとしたとき「他人の評価を気にしすぎる性質」ができるとも言えます。

 

くだらない他人の思考を取り入れない

私のこの記事、サイト自体も「くだらない他人の思考」です。

これを理解している人は私の記事を偶然一読しても、二度目は無いでしょう。

 

そんな私も他人の記事を二度読むことはめったにありません。

あるとすれば「反復して自分自身の糧にしたい」「自分の理解力が足りなく理解できない(でも価値を感じる内容だと思う)」と思った時のみです。

 

ということは「自分自身の糧にならないような他人の思考」は見るだけ無駄では済みません。

端的にSNS全般は害悪の塊だと考えています。

 

特にTwitterなど文章系SNSに蔓延る「こう思う」は文章が短すぎて説明が足りてない上、このリツイートやいいねが「みんな本当に共感して押したものなのか?」が不明である点が余計に無駄です。

「評価が多いから評価する」みたいな自分軸のないイナゴが湧いた結果のバズだった場合、単なるノイズに心を乱されるきっかけとなりかねません。

私はそのように「思う」訳ですが、他者からしたら有用なのかもしれませんけど・・・。

 

絵が下手なのに上手いと思ってる人・偉そうな人に苛立つ人へ

でも書きましたが、SNSにおいて評価を得る手段はそれぞれ存在し「純粋な絵のクオリティ」だけで見ると摩訶不思議な現象が起きていると思わざる得ないことが多々あります。

それでも「この人は純粋な絵の評価を受けている訳じゃないんだ、他に理由があるんだ」とわかった瞬間、気にかけるだけ無駄ですし、それなら絵のクオリティが高い人の研究をした方が有意義というものです。

 

SNSはそこかしこに誘惑の罠があり、悪い面にハマると時間だけ消費して何も残らない人生を歩むことになります。

もちろん、他人の評価を気にして踊らされる自分も変わることはありません。

SNSをやめたいけどやめられない人の背中を押す理由

 

孤独を恐れない。孤独でいい。

他人からの評価を気にして、他人と良好な関係を築こうとすることは生きていく上で大切です。

しかし、その積み重ねが同調圧力を作り出し、個々の良さを捻り潰してあらぬ方向に進もうとしていきます。

 

「やたらと群れたがり、孤独を恐れる人」がいます。

こういう人に発言力や行動力があると、周囲の人を取り込み自分に都合よく動くよう仕向けようとします。

○○会などと飲み会や集会を作り、短期間に何度も会おうとする。

 

彼らは「一人は辛い、みんなでいれば安心だし楽しい」を標榜しますが、人が人と関わって安心・楽しいだけで終わるなら世の中に浮気や喧嘩、殺人事件は起こりません。

 

別に「一人が至高」だなんて言ってはいませんよ。

どちらにも良い所と悪い所があります。

しかし、その距離感を保てないような人間関係であるなら、必ずどこかで足かせとなります。

 

個人的には「たまに会うから近況報告ができて、想いが深められる」と考えます。

そしてまた次会うまでに自己研鑽に励もうと思えるのであれば、孤独は孤独ではありません。

 

さいごに

「他人を気にして、気にしない思考」は一人の時間に作られる

他人を気にするなら徹底的に「どのような他人か?」を考えなくてはなりません。

「すべて」は無理です。

 

「どんな人との関係を維持したいのか」「関係を切りたい人はどんな人か」を考えることなく「とりあえず誰でもいいから繋がりたい・好かれたい」という人ほどビジネスにおける人脈病を患った人と同類なのです。

SNSで「つながりたい」系のタグ付けてシコシコ相互やってる人と、異業種交流会に足繁く通って名刺ばら撒いている人って本質的に同じなんです。

不足は悪だと言わんばかりに、増やして肥やして削ぎ落とす事を一切考えない。

 

彼らは成功を望んでいるはずなのに、成功している人がやらないことをせっせと頑張っているのは何故ですか?

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